成長をとめたくない

これといって何かがあるわけでもないけれど、時々思い出してよかったな、とか自分の中でこの感覚は大事にしたいな、ということを記録したりするためのブログなので、きほんヤマもオチも意味もないし唐突に始まって唐突に終わる。

 

 

私は小学校の高学年でいじめられて、当時の私にはさっぱり理由がわからなくて、まぁ、ぶっちゃけ今でもあまりわかっていないのだけれど(母親曰く僻み)、そういったことがあったので母校という意味で小学校という場所があまり好きではない。いじめの内容は今回関係ないから割愛するけれど、同じグループにいた他の子は虐められなくて、どうして私だけボスっぽい子に虐められたのだろう、と理不尽な思いをしたことは結構なトラウマである。でも数年前行った成人式で(ほんっっっっっっっと下らないプライドだと思うけど行かなかったら負けだと思っていて、つまり私は負けたくないから小学校の同窓会みたいな成人式には行った。皆がどういう風に変わっているのか、はたまた変わっていないのかを見てみたい野次馬精神もあった。あと私は小学校から大学まで私立とかいうお嬢様なので、ぶっちゃけ地元に友達がいなく地元の成人式に行っても何も楽しめないから小学校のやつに行った。因みに翌日中高の成人式にも行った。そっちは死ぬほど楽しかった)、なんとなく理由がわかった。

 

その日の朝、私は振袖に殺生丸をバッチリ決めて校門前に立っていたのだけれど、寒さからなのかトラウマのせいか歯がガチガチなって止まらなかった(多分後者)。頼みの綱のエベレスト(小学校から高校まで一緒のめちゃめちゃ仲良い友達)はこの集まりに来ないって言うし、そうなるともう、ほんと大学になっても仲良しの友達なんかいなかった。死ぬ、と思った。ほんとなんで行こうと思ったんだろう、と思った。思い出した。1人だけ恩師と呼べる先生がいるのだけれど、その先生に元気な顔を見せたかったんだ。その挨拶だけしてまぁもしかしたらクラス外の仲よかった友達と適当に話して二次会に顔も出さず帰る予定だったんだ。と思った。

どうにか心を落ち着かせて、成人式のホールに入って、式が始まって、まぁ恙無く終わった。でもその式の席順は高学年のクラスの並びだった。式が終わって、何となく女子たちで集まっておしゃべりした。例のグループのボスとも、何人かの女子を交えて話した。そのとき、何の言葉だったかのイントネーションの話しになった。→→→↓か→↑→→みたいな感じだったような気がする。ぶっちゃけそんなコマンド入力みたいな話、仔細には覚えていない。でその話が結構続いたもんだから、思わず私は言ってしまった。「どっちでもいいじゃん」

ボスの顔は何故か一瞬引きつっていた。その空気を感じた瞬間、あ、私だから虐められたんだ、と理解した。

説明はうまくできない。その子にとって私の一言がどう不快だったのかは今でも計り知れない。「どっちでもいい(暗にどうでもいい)」と言って否定したことが不快だったのかもしれない。彼女にとってはイントネーションがどうでも良くなかったのかもしれない。知らない。わからない。でもこのわからないが答えな気がした。私と彼女は、一生わかりあえない。たかが8年経ったくらいでは、お互い変わることなんてできないのだと察した。だからもし小学生の自分に伝えることがあるならば、お互いがわかりあえない所に飛び込むことは非常にリスキーで、お互いストレスがすごくかかるよ、ということだった。事実すごくストレスはかかっていたし、いじめられて避難した先のグループで私はとてものびのびやっていた。勿論いじめはよくないしなんなら私は根に持つタイプなので今でも許していない。ただ、ただ、20歳の、小学生のときから8年経ってそれなりに経験値を積んだ私は「あ、だから虐められたんだ」と理解することができたので、もし初対面でもきっと最初から絶対彼女のような人間とは友達にならないし、ちゃんと避けることができる、という成長を成人式で感じたのであった。それだけでよかった。充分だった。わたし、多分人生やっていける、と、ちょっと思った。