父が死んだ

こういう書き出しで、15年近く前、私は好きなアイドルの夢小説を書いていた。夢小説と思えないような書き出しで、京極夏彦気触れの文体で、全くのフィクションを、そこそこの長編を書いていたことを唐突に思い出した。

 


理由は父が死んだからである。

 


私と父の物語は、びっくりするほどありふれた不幸とびっくりするほどの愛憎に満ちている。ここに母も加わると悲惨なエピソードがさらに増え、なんというか、お互い傷つけ合うことでしか愛を確かめられない、を地でいく家族だった。しかも根本的な原因はお互いではなく、各々の親だったのでもう本当にタチが悪い。歴代ずっと呪われた家系のように脈々と受け継がれる自営業家系の悪しき文化と親子関係を煮詰めに煮詰めた最終兵器、それが私の両親だった。

 


さて、とはいえ今回は別に父親との愛憎混じった数多のエピソードを披露するわけではない。それはまた何かの際に数行の散文的にまとめられたショートショート的な何かになることはあるかもしれないが、とにかく今回ではない。

 


理由としては、今このような文体で比較的淡々と記載しているが、その実キャパオーバーでメンタルがずっとボロボロで、隙あらば泣いてしまうので、ちょっと外部に吐き出すことで自分を整えよう、という魂胆だからである。なのでエモエモにどっぷりひたるつもりは今のところない。

 


いつもは1年を3行にまとめよう!とか、ブログは年1更新で大丈夫!みたいなノリで書いているけど、今年は上半期で既にお腹いっぱいなので、一旦書いておく。

 

 

 

昨年は彼氏ができたところまでだったかと思う。その彼氏と3月半ばに入籍した。理由としては彼氏が3月下旬に転勤になったから。なので急遽2月末にプロポーズ、それから私の職場に辞意を伝え、毎週のようにお互いの親への挨拶をこなし、親の顔合わせと入籍をほぼ同時にこなし、旦那になった彼氏は身一つで転勤(一旦ホテル暮らし)していった。

 


父親とは長いこと別居しており、4年前の土下座事件以来会っていなかったので、結婚は私が有休消化中の5月に報告するか〜と思っていた。

そしたら父が癌末期で4月頭に発覚後即救急で入院して1週間で他界した。たまたま本当に運良く発見してくださったのは父の趣味のアメフト観戦仲間の方だった。発見してくださらなければおそらく孤独死として扱われていたし、私たちは看取れなかったと思う。感謝してもしきれない。

 


意識ある状態で面会したのは1日だけ、コロナ禍ではあるので母と私は1人ずつ15分の時間しかなかった。4年ぶりに見た父は下顎呼吸で話せる状態ではなく、時々痛そうに腕を伸ばし、ガリガリで両手にミトンをつけていて、びっくりするくらい顔色が悪かった。あんなに酒とタバコをやめなくても全然丈夫だった父親が、ガタイが大きくて、いやむしろ太っていて、力の強かった父親が、びっくりするくらい細かった。私は母より後で入室して、その光景を見た後に、初めて結婚を伝えた。父は静かに聞いていたと思う。多分。それから、孫の顔と花嫁姿を見せられなくてごめんということと、父から学んだことはちゃんと実践して生きているから心配しなくていい、ゆっくり休んでほしい、父親でいてくれてありがとう、みたいなことを言っていたと思う。あと幸せな人生だったか聞いたら大きく頷いていて、なんかもうそれで十分だった。

それから面会の時貧血になったので、ちょっと病室で座って私は無言でいた。それで、もう、限界だった。急に言われて病院に来て、それはちょっと。こっちも荷造りでバタバタだし。仕事の引き継ぎもあるし。「じゃあ、お疲れ、」と言って、父から目を背けるように病室から出てしまった。

どうやら余命は長くて2-3ヶ月と言われていたらしい。

 


それから2日後、私は荷造りした荷物を旦那の大阪の家に運び込んでいた。旦那の家からの荷物分しか会社持ちの引越し代が出ないからである。母の友人がトラックで運んでくれるというので、ご厚意に甘えて運んでもらった。母親の友人は私のことも昔から知っている方々なので、今回のことも当然知っている。おめでとうとお悔やみ申し上げますの両方の言葉を同時に聞くツアーは、ここから始まった。

 


運び終わって、それから何となく、母とお墓参りに行くことになった。父がおそらく入るであろう墓に、よろしくと伝える為である。母は義実家にも色んな思いがあったようだが、それでも墓参りは欠かさない人だった。私もよくついていっていた。だから墓参り自体は手慣れているが、とはいえ号泣しながら参ったのは初めてであった。その後、私はすぐ近くの母方の祖父母の家へ、母は喪服を買いにデパートへ向かった。

暇な瞬間、誰かといないとどうにかなりそうだった。事実、不安すぎて毎晩絶対骨なんか拾えないと旦那に泣きながら電話していた。あと結婚してすぐに義父とはいえ会ってない人の骨を拾わせてしまってごめんとも言った。旦那はいつも大丈夫と言っていた気がする。

 


コーヒーゼリーをもらいながら、祖母とお茶を飲んでいた時だと思う。母から電話がかかってきて、いよいよ今晩怪しいと病院が言っているから、と向かうことになった。

 


16時ごろに到着して、それからぶっ続けで5時間、私達家族は最期まで病室で過ごすことになる。父はすでに麻薬を入れられた後で、意識は失っていた。こんなご時世でも、意識ある間に結婚を伝えれて本当に良かったと思った。でも激痛だっただろうからゆっくりしてほしいと思った。それからはずっとほとんど、わたしが話し続けていた。改めて旦那がどう言う人かとか、スターウォーズの新作をやるらしいとか、父の推しチームがスーパーボウル優勝して良かったね、とか、そう言う話を、私がずっと、小さい頃からずっと、ずっと家族3人ででやりたかった雑談を、した。

 


21時ごろ、母が「喪主なんだから帰って準備しないといけない、帰りたい」と言い出した。病院から自宅まで1時間半ほどある。確かに帰って準備しないと間に合わない。でも私は嫌がった。これから夜に向かうと絶対に父が体力的にしんどくなる。なぜか病気の時は夜しんどくて、昼が楽なのだ。その時に最後まで一緒にいてあげないとダメだ、今から帰って準備してまた戻ってきた時には多分間に合わない、と、かなり珍しく駄々をこねた。でも母も譲らない。正論である。そこで私1人が残れば良かったのだろうが、父がこれからどう死に向かっていくのか、もし暴れたりしたら…等とにかくチキってしまってそれも嫌だった。おそらく30分近く、でも、でも…とずっと喧嘩の膠着状態が続き、最終的にはナース2人も巻き込んだ討論会になった結果、とはいえ終電がなくなってしまうまでにはやはり帰った方がいい、と決断し、私が、「じゃあ家に帰る!」と言った瞬間、

 


父のバイタルサインが一気にゼロになり、そのまま眠るように他界した。釈迦の誕生日だった。

 


父は最後までまでやりとりを絶対聞いていたな、と思った。バイタルが下がっている時に母と2人で大慌てて「ごめん、最後まで揉めてごめん!」と言い続けるコントみたいな展開になっていた。とても私達らしい最後だな、と思った。

 


さて、それからなのだが、私と母は悲しみの中、至極淡々と葬式に向かって段取りを進めることになる。ちゃんと看取るということが、遺されたものにとってこんなに気持ちを切り替えさせるものなのか、と思った。経験しなければわからない。父が、父だったモノになった時、すっと、腑に落ちたような気持ちになった。決してさっさと亡くなれば、と思っていたわけではない。それでも、ちゃんと弔わなければならないという気持ちだけで2人とも動いていた。

 


その後コロナ禍では滅多にできなかったエンジェルケアをし、父と一緒に長いリムジン?みたいな車に乗って葬儀屋に向かい、そのまま段取りの話を23時くらいからして、その日はそのまま帰宅して寝た。

 


通夜は日取りの関係で2日後だった。転勤したばかりの夫が忌引きを使って帰ってきて、通夜の時に親戚にいきなり紹介する形になった。通夜も葬式も、経験したことある方はわかるだろうが、てんやわんやだった。父の友人が何人かきてくれて、全部で30人ほど、小さな式だったけど、多分疲れたし、職場にも連絡したし、ほんと、疲れた。職場なんか、結婚のお祝い金と休暇申請した直後に今回のお金と休暇申請をしたので、かなりびっくりしていたと思う。

 


ちなみに骨を拾えないと泣き喚いていた件だが、いざ拾う段階になると母子共にノリノリで拾っていた。いかんせんあの時代に178㎝ある大男の骨なので、焼けても結構ちゃんと残っているし、大腿骨は30㎝以上あるし、脊椎なんか標本か?ってくらいでかかった。多分直径3㎝以上あった。大転子とかも2㎝以上あったので、途中から感心しながら拾っていた。

 


さて、とりあえず葬式は終わってひと段落ついて、まぁ次は49日なのだが、運良く有給中に49日の日取りが決まった。なのでその間に荷造りをする訳なのだが、ここで一つ問題が発生した。

 


相続である。

 


結論から言うと母が全部相続することになったのだが、現金だけでなく不動産があるせいで、売却等の手続きもしていかなければならない。なんか業者とか、色んな偉い人となんか色んな話をした。相続が母のみになると確定するまでは、ほぼ全ての窓口は私である。なぜなら母は、父の死亡届も書けないほどのパニックっぷりで、とてもじゃないけど何もできる状態ではなかったからである。

 


これのせいで、まじで荷造りと氏名変更が進まず、予定より1週間も転勤先に行くのが遅れてしまった。

 


余談だが、父の死亡届を書けない母の代わりに私が記載したことにより、作ったばかりの新姓の判子を初めて使ったのがその死亡届だった。何とも言えない気持ちである。あと楽天でサクッと作っておいて良かった、と思った。

 


とりあえず、6月の上旬に転勤先に移った私は、その後怒涛の氏名、住所変更を行い、ハロワに行き、失業手当を貰う算段をつけ、絶賛求職中である。相続は…母が多分爆発しながらちょっとずつ進めているはずである。ごめんな、大阪おれんくてな…でも乗り越えてくれな…という気持ちである。

 


そして6月。まさかのSnowManコンサートペイペイドームday2に当選していたので、母と2人でメンタルボロボロの中見に行ってきた。ちなみにその前後で派遣薬剤師の業務がたまたまあったので、私は遠征費はタダである。運がいい。というか、その日は6月18日で父の日であったので、多分プレゼントを父がくれたのだと思う。普通逆だけどそう思うことにする。ライブめっちゃ良かった。Cryoutまじで良かった。頭おかしくなるかと思った。またやってくれ。

 


さて、それで約1週間福岡に滞在して、帰宅して、それから職探しである。

 


普段だったらいつも通り薬局で探すのだが、急に、急に自分のキャリアプラン(というかアイデンティティ?)が立て続けにぶっ壊れてしまうようなことが起こり続けて、全くわからなくなってしまったのだ。

ずっと薬局で給料を追い求めるのか、旦那の海外転勤の可能性も考えて英語をちょっとでも使う仕事に未経験で着くのがいいのか(そもそも薬局経験から行くの難易度高い)、そもそも医療業界全体雲行きが怪しいし…等々

 


それと父のこと、いきなり見知らぬ土地こと転勤先に来たこと、等々重なって気持ちが追いつかず、ずっとキャパオーバーして、ことあるごとに泣いているのがここ数日である。夫は小学校以来泣いたことがないらしい人間なので、私が泣いていると大慌てする。よしよししながら何で泣いてるのか説明して、と言われるが、とはいえバックグラウンドが違いすぎて、説明しても理解してもらえない、となるので、私はまた溜め込んで号泣する。というかそもそももはや何で泣いているのかもうわからないけど泣いている、の悪循環である。

それがあまりにも続くので、流石にまずいと思って、もう長いこと使っていなかったこの文体で長々と記すことにしたのだった。

 

 

 

これでも端折ってるのに長いな

 


そして、今とりあえず父の百箇日法要(と小学校の同窓会)の為に、急ぎ帰阪している。

 


本みたいに話が纏まるわけないし、現在進行形で物事が日々動いていて、オチがないことがブログの醍醐味だと思うので唐突に筆を一旦ここで置くが、とにかくパニックである。旦那曰くキャパが狭いらしいが(そういうことを平気で言うところがきらい)、とりあえず目下は、大阪着いてお昼ご飯何食べようかを考えることにしたい。あと氏名変更完了した薬剤師免許も取りに行きたいし、なんだかんだやっぱり今年ずっと忙しいしメンタル休まる日が1日もなくてキレそう、という話だった。じゃあまた。